沖縄の武人が広く門下生を募り、道場を構えることは、当時の琉球(沖縄)では一般的なことではなかった。その為、松村の高弟には終生弟子を取らなかった者も多い。
松村の息子や孫もまたそうであったので松村直伝の首里手・古武術は、当然その息子や孫にも伝えられたが、二代目松村は早世している為、三代目の松村虎寿(通称:松村ナビィー翁)はその技の多くを晩年の松村宗根から直伝されている。しかし、三代目松村も弟子を一人もとらなかった。また、自身も男子に恵まれなかった為、武才のあった甥の祖堅方範にのみ、その技を伝えたと言われている。
こうして松村一族四代にわたって継承された首里手は後に祖堅方範が「少林流松村正統」と名付けた。これは松村の正統な流れをくんでいるという意味をこめてつけられた会派名である。
祖堅方範は松村系統の首里手だけではなく、「米須ウシ翁」より古武術を伝授された。米須の師は「津堅マンタカ」と呼ばれる人物で、古武術の大家「津堅親方盛則」の流れを汲む武術家であり、彼の伝えた型の一つである「津堅の棒」は、古武術家の平信賢氏もその修得の為に、祖堅のもとに訪れているといわれている。
現在、少林流松村正統の型と技法は、祖堅方範から 喜納政順 に伝承され、現在に至っている。
首里手・古武術の歴史
世界的な普及発展をみせる空手・古武道の発祥の地が琉球(現在の沖縄)であることはよく知られている。空手は元来『手』と呼ばれ、三系統に分かれて発達してきた。
『手』は、琉球王国の首都であった首里を中心に士族の間で秘密裏に継承された「首里手」、王府の貿易港、塩田として栄えた泊を中心に継承された「泊手」、商業の中心地、貿易港として栄えた那覇を中心に継承された「那覇手」の3つに分かれている。
現在、日本にある空手と認められた流派はこの三系統のいずれかに属する。最も歴史の古いのが首里手であり、その技法を完成させた中興の祖と呼ばれる人物が「松村宗根(1809年~1899年)」である。松村は王家の武術指南役を務め、また公には国史として中国福州や薩摩藩へと派遣されるなど、まさに文武両道の君子であった。
松村の門下からは優れた武人が輩出された。糸洲安恒もその一人で、彼の門弟からは多くの流派が生まれ代表な流派名をあげると少林流、少林寺流、小林流、松林流、糸東流などがある。他にも安里安恒が松村の高弟として有名であり、彼の弟子の富名腰義珍は後に松濤館流を創始している。