祖堅方範(Hohan Soken)は1891年(明治24年)、沖縄県西原村我謝(現・西原町字我謝)に生まれる。祖堅の母であるカミーは首里手の大家・松村宗棍の孫娘に当たり、甥である祖堅は十二歳の頃、松村の三代目にあたる叔父御「松村虎寿(通称:松村ナビィー翁)」に弟子入りし、1918年(大正7年)まで首里手・古武術の修得に励んだ。その後、西原の伊保の浜に住む「米須ウシ翁」なる人物の下で琉球古武術の修練を積んだ。
米須翁は「津堅親方盛則」の流れを汲む「津堅マンタカ」の弟子で、高名な武術家である。祖堅は米須翁より多くの古武術の型を伝授された。祖堅は皆伝となった後も古式に倣い、しばらく弟子をとらずにいた。
それから祖堅は1924年にアルゼンチンに移住する。その後、長い間アルゼンチンで生活することとなった為、結局日本国内には祖堅の弟子は皆無であった。
1952年、祖堅は沖縄に帰郷するが空手があまりに競技化、スポーツ化しているのを愕然とする。沖縄伝統の武術空手が姿を消してしまうことを危惧した祖堅は、門戸を開き、彼の受け継いだ首里手・古武術を広く普及させる決意を固めた。当初「松村首里手」を名乗っていたが、1959年に「少林流松村正統」と改め、古伝の首里手・古武術の正しい継承に努めた。尚、祖堅より師範の称号を受けて道場開設を許されたのは、喜納政順、西平向盛、Gene Briscoe の三人だけであると言われている。
1959年、「第1回古武術演武大会」にて演武を行う。その2年後である1961年には「第一回沖縄古武道発表大会」に出演し、鎌の演武を披露する。
1982年、11月30日、死去。享年91歳。