喜納政順(少林流松村正統空手道 10段)
1934年(昭和9年2月15日)那覇市壺川に生まれる。
はじめて空手を習ったのは小学校3年生の頃、父である政良に師事し、ナイハンチ、パッサイを学んだ(※1)。その後、第二次世界大戦後(1948年:昭和23年)頃には、新川次郎先生(警察官)に師事し少林流系の空手を学ぶ。
1953年、祖堅方範に師事する。
1967年、祖堅先生の拝命によりアメリカ・カルフォルニア州に派遣される(※2)。
1968年、サンタモニカでブルース・リー(李小龍)主催の大会に招待され演武を行う(※3)。
1969年(昭和44年)、ネバダ州ラスベガス警察の推薦者ヘンリー与田先生(日系2世)、同じくジーン・ブレスコ(Gene Briscoe)両氏の招聘により、 『少林流松村正統沖縄手』としてラスベガスに道場を開設する(※4)。当時から現在に至るまで門弟の過半数は警察官であり、沖縄空手の稽古に日々励んでいる。この道場は現在、2代目ジーノ・ブレスコ(Gino Briscoe:現役麻薬取締捜査官)が継承している。
現在、喜納政順は沖縄を拠点として少林流松村正統空手の指導を行っている。
(※1)喜納政順の父である政良(1892年(明治25年)生まれ)は、那覇港の沖仲仕の頭であった。父政良は実戦唐手家として知られる本部朝基(本部サール)に師事し「唐手」を学んでいる。本部先生曰く「唐手はナイハンチ1つで十分だ」という持論で、父政良はハカナーヌーチーク(墓庭)で稽古を行った。当時は道場代わりにハカナーヌーチーク(墓庭)で稽古している。父政良は本部朝基(本部サール)から学んだ空手(ナイナンチ、パッサイ)を政順(喜納政順)に伝えた。
(※2)当時のアメリカにおける空手界は、沖縄の空手とは全く異質なものであった。例えば韓国のテコンドー、香港のカンフー、中国の太極拳、その他一部日本からの留学生達も入り、乱れたものを空手と呼んでいたようだ。また沖縄の空手が、日本の柔剣道と同じように、明治初期に発展された武術として誤解もされていた。それらの誤解を説くために、又、真の沖縄の空手を伝える為に政順は、当時の沖縄県人会の文化部長、外間現栄氏とテド大城氏の助言をもとにアメリカにおける道場の看板を超党派で沖縄手(Okinawa-Ti)として掲げ、沖縄手(空手)を伝えることとなる。
(※3)この大会会場で政順は、サイの型とパッサイ(小)を演武した。同大会には、宮平勝哉先生の門弟である伊波清吉氏も五十四歩を演武した。それらの演武を見たブルース・リーは友情演武として、太極拳型の一部と、氷割りを披露してくれた。この大会で全日本空手連盟の大島勉先生が、挨拶の中で沖縄の空手を紹介して下さった。それは大会の度に行われたようで、沖縄の空手が浸透する良いきっかけとなった。又、ロサンゼルスに本社のあるスポーツ週刊誌「Black Belt」も同様に、空手は沖縄が発祥である事を伝えてくれた。これらの協力者や派遣された沖縄の空手家の活動により、空手は沖縄が発祥の地である事が知れ渡るようになり、数年で各州の道場に浸透した。
(※4)『少林流松村正統沖縄手』は現在、ジーン・ブレスコのご子息であるジーノ・ブレスコ(Gino Briscoe:現役麻薬取締捜査官)が「守礼館」として継承している。
沖縄県空手道古武道連盟における経歴
・1988年 常任理事として就任
・2003年 副会長に就任
・2004年 体調不良により副会長を退任
・2005年 理事に復帰
・2011年 常任理事となる